たいていの人間にとって長文を書くのは困難な行為である。小論文のような小難しいことを書くのを要求されるヤツはなおさらであり、日記のように日々起きたことを垂れ流すのすら意外とハードルの高い行為である。
最も、そのハードルはただ単に文章作成技術を習っていないから高く見えるだけ、だと俺は思っている。日本だと blog は日記の延長線ぐらいにしか思われていないが、欧米では実名ベースで議論・報道・コミュニケーションが結構成り立っている(らしい)。文化の影響もあるにはあるだろうけど、やはり純粋な技術としてのライティング教育の有無はかなり大きいと思う。え? 読書感想文? 何の予備訓練も無しに数千字もの感想を強制されることは、ほとんどの人にとって苦痛を伴うだけだと思うから、あれは論外かと。
というわけで、それなりに長い文章を書けるようになれるかもしれない方法を書いてみたい。ただし、理科系の作文技術 (中公新書 (624)) とは違って、テキトーな量の文章をとりあえずひねり出すような、ムダと冗長さに満ち溢れたテキストを打ち出せるような、そんな割とどうでもいい文章作成技術である。例えば、今正に読んでいるこの文章のようなそんな感じのあれである。どうでもいいけど、どうでもよくないかもしれない文章をつくる技術について考えてみたい。
で、その方法だけど、文章書くの苦手ですーな人はとりあえずニコ動で「wwww」してみるといいんじゃないだろうか。ちょっと面白かったらwはいっこ、それなりに面白かったらwはみっつ、かなり面白かったらwはたくさん。そんなんカンタンじゃーという手錬れはブコメではてなスターやついったーで fav を得られるコメントに挑戦するのが今はおもしろいかな、と。ニコニコ大百科の編集もたのしそうかなぁ?
というのも、俺がむかしネトゲにハマっていたころ、出来るだけ「w」や「(笑)」を使わないようにしていた。「w」を使うときでも、「w」単独ではなく、「それはないわw」のように、一言以上のコメントを付与するという俺ルールを課していた。なんでかというと、「w」単独ではどうも俺が何に対してどのようにどのくらい「w」を感じたのかは伝わらないんじゃないのかなぁ? と疑問を抱いたことに端を発している。
「w」だけじゃ伝わらないかもしれないことについて考え続けることは、自身が何を考えていることに繋がっているのではないか? という仮説を俺は持っている。そして、考えたことを書くのすらむつかしいのに、考えていないことを書くのはもっとむつかしい。考えて、それを表現しようと考える。なぜこっちの動画には「w」はいっこで、なぜこっちの動画には「w」をみっつつけたんだろう? それを考えることの出発点にする。そんなのどうでもいい? いやいや、どうでもいいことをどうでも良くなく出来るかもしれないのが、このエントリの趣旨ですので。
そういったどうでもいいことを、なぜどうでもいいんだろう? と、考え始めると、だんだんと脳の中でいろんなことがグダグダと管を巻き始める(これは俺だけの感覚かもしれないけれど)。そして、やべーなんか書きてーとなったときにテキトーに書き始める。「韃靼戦争 マジパネェ。なぜパネェかというと、この音声である」 それだけ書ければOKだ。段落がどうとか考えない。細けぇことは考えずにダラダラと書く。思いついた単語をテキトーに打ち込む。なんか文章っぽくなったらそれでOKだ。
ある程度の量を書くには語彙も要ると思うけど、これも考えることを軸足におくことで補える。あの本あの blog のあの表現はイイネー今度パクろうかとか、あの単語ってどういう意味なんだろちょっと調べるか、とか、そゆことをやってる内に、自分が文章で何かを表現したい際に必要最小限の武装であるところの語彙・表現は集まってくる。それを自分なりにカスタマイズしていった結果を、型とかスタイルとか呼ぶんじゃないですかね?
「w」だけじゃ終わらせないよ習慣は結果としてテキトーな量の文章をとりあえずひねり出す程度の能力となった、少なくとも俺にとってはそうだった。更に、これに理科系の作文技術エッセンスを加えることで、仕事で必要な事実と意見の書き分けを要求される文書作成技術の向上にもまた繋がっているのでは……と、考えているわけです。まぁ多少論理がスッとんでるような気もするけど、仕様書じゃないんだから多少はカンベンしてくれw
とまぁそんなワケで、書きあぐねている人はまずニコ動でwwwwwwwwwwwすればいいんじゃないでしょうかね?