kagamihogeの日記

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スーツとかギークとか最初に言い出したのは誰なのかしら

昨今のスーツ&ギーク談義で、大学時代のあるエピソードを思い出した。

これは、俺の恩師が、就職活動を開始した俺たちに対して「コの業界のお仕事概観」の説明に使用した図。恩師曰く「コの業界の仕事は対ヒトを重視するか対コンピュータを重視するか、大雑把にはこの 2 つの軸になる。企業選びのポイントとして、その企業がどちらの軸に重きを置いているのか? 自分はどちらの軸を重視したいのか? を考えてみるのも 1 つの手である」と。

恩師はホワイトボードをめいっぱいに使って端から端まで線を引いた。その意味するところは何なのか? この長い長い線上に点がいくらでも打てるように、コの業界の仕事は多種多様さに満ち溢れている、ということ。

非常に狭い言い方をすれば、←端からいくらかの部分がスーツ、→端からいくらかの部分がギークな生き方になる。じゃあ線の端の方でない、スーツでもギークでもない生き方とは一体何なのだろうか? それはもう、人の数だけ存在するとしか言えないのではないだろうか。個人が観測できる仕事の種類など、コの業界に限ったとしてもたかが知れているように。

むしろ重要なのは、線上のどの点を選ぼうとも技術者であることに変わりは無い、ということ。アレをやってダメならコレをやり、コレをやってダメならソレをやり、ソレもダメなら更なる策を練る。スーツだろうとギークだろうと線上のすべての点たちは、より良い仕事のやり方を思考し続ける。

知識と経験の積み重ねだけが技術を為し、技術だけがヒトとコンピュータを動かし得る。スーツもギークも線上のあまねく点もすべては技術者。ゆえに技術の持つ力を信じる者同士は必ず理解しあえる。スーツは対ヒトに、ギークは対コンピュータに、線の真ん中らへんにいるヒトはそれぞれの方向に視線が向いているだけで、その根は繋がっている。

スーツとして、ギークとして、自らの立脚点を見定めることに意味はある。ただ、一度線上に自分の点を打ったらそれで終わりではない。なんせ線上に点はいくらでも打ちようがあるし、まだ誰も打ったことのない点だっていくらでもある。

極端に[スーツ|ギーク]の軸へ行かずともあっちの点に行ったり、こっちの点にいったり。技術者であり続ける限り(理屈の上では、だけど)線上のどの点へも行けるし、今の自分の点から近傍の点へ移るのは無茶苦茶に難しいことではない。なんかこの点は無理そうだ、向いてなさそうだ、と思ったら技術の力を信じて別の点を選ぶことが大事なのではないだろうか。


スーツやギークだけがコの業界の生き方ではなく、むしろ技術の力を信じているという点では両者に違いは無い。そして、コの業界は技術の力を信じるという点では同一の多様な生き方が存在するし、そう在ってほしい。なんか取り留めない文章になってしまったが、そんな想いを込めて 2007 年のエントリはこれで締め。